・劇評・

TeXi’s本公演

「水に満ちたサバクでトンネルをつくる」に寄せ

(山﨑健太さん・上村朔也さん より)

評:山﨑健太(n/y)

 

謎めいたタイトルである。『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』ことを想像してみる。それは不可能の謂だろうか。タイトルに呼応するように、この作品は保育園の子供たちが思い思いに遊んでいる場面からはじまる。子供たちのやりとりは微笑ましいが、走り回っているうちに他の子にぶつかって怒られた男の子・うり(澁谷千春)が「突っ立てたのが悪いんじゃん」「ママがぶつかってきても、オレが怒られるもん」と言い返すあたりから不穏な気配が立ち込めはじめる。

この作品のあらすじを説明するのは容易ではない。というのも、この作品には三つのレイヤーがあり、台本上は「子供」「今」「家族(の役割)」と記されたそれらのレイヤーが、舞台上ではときに交じり合うようにして演じられることになるからだ。俳優はレイヤーに応じて複数の登場人物を演じるが、たとえば「子供」の場面に「今」の登場人物が入り込んでいる場面などもあり、観客の多くにとって、一人の俳優が複数の役を演じていることはわかっても、その境界がどこにあるのかは判然としなかったのではないだろうか。

もちろんそこに企みがある。子供たちはしばしば「おねぇさんだから」「男の子だから」などと大人によって刷り込まれたステレオタイプを口にし、そのうちのいくつかは「家族」の場面でも繰り返される。というよりむしろ、「子供」の場面で発せられるそれが「家族」の場面の繰り返しなのだろう。子供たちが口にするそれが単に大人たちの言葉を反復したものだということは明らかだ。

反復されるのはステレオタイプな価値観だけではない。うりの「ママがぶつかってきても、オレが怒られる」んだから(ぶつかった自分ではなく)「突っ立てたのが悪い」という言葉が示唆するように、まだ幼い子供たちは家族との関係をベースに人間関係を構築していく。家族内の人間関係は複数役を演じる俳優の身体を通して子供同士の関係と二重写しとなってその無根拠な暴力性を露わにし、そのような関係を一方的に押しつける大人の側の幼稚さ、醜悪さをも暴き立てることになるのだ。

「子供」と「家族」の二つのレイヤーはあやの(テヅカアヤノ)の存在を蝶番のようにして重なり合い、つまりはあやのの家族関係が子供たちの関係に反映されているのだが、やがてわかってくるのは、すべての核にあやのと母(古川路)との関係があるということだ。「ママにはアヤノしかいないんだよ」という執着にも似た母の愛情はあやのを束縛し、それは母とその母(テヅカ)との、あるいはあやのとその子(古川)との関係においても呪いのように反復される。「絶対に私で流れているものは止めなければならないって思っていた、はずなのに」というあやのの息苦しさは舞台を覆う不穏さと響き合う。

現在のあやのはどうやら母とは一定の距離を置いているようだが「本当は一緒にいられたんじゃないかって、今、でも」という言葉には葛藤も見られる。あり得たかもしれない他の可能性と、こうでしかあり得なかった現在。冒頭から立ち込める不穏な水の気配はやがて、東日本大震災の記憶として観客の前にも姿を現わし、「お迎えきた!」「先生、さようなら、皆さん、さようなら」という子供たちの声はその響きを変えるだろう。あやのにはお迎えが来ず、家に帰ることはできない。あの日遊んでいた砂場は沈んでしまった。母への愛憎とひとり取り残される悲しみ(あるいはそこには生き残ってしまったことへの後ろめたさも含まれているかもしれない)、そして失われた「家」への思いがないまぜになるこの場面は鮮烈だ。

 

 

気になった点が二つある。一つは先行する劇団、言ってしまえばマームとジプシーの影響があまりに強く感じられたこと。短い場面を繰り返す手つきや喪失の主題といった共通点もそうだが、いくつかの場面や言葉の言い回しからはほとんどマームとジプシーの「コピーバンド」のような印象を受けた。先行する劇団から影響を受けることは当然だし、影響を受けていることから逃れることはできないわけだが、単にマームとジプシーのフォロワーだと思われてしまっては「損」だ。複数のレイヤーを行き来する構造や演出の手数など、すでにオリジナリティは十分にあると感じたので、意識してマームとジプシーから距離を取るくらいでもよいのではないだろうか。

もう一点は物語が結局のところ母と娘の関係に収斂してしまっているように見えたこと。この作品を上演すること自体が母と娘の呪いを反復強化しているように感じられ、それが引っかかった。主人公が作者であるテヅカアヤノと同じ名前を持ち、本人がその役を演じているとなればなおさらである。もちろん、作中で全てが「解決」されなければならないと言いたいわけではない。だが、「解決」のためのヒントはすでに作中で提示されてはいなかっただろうか。たとえば、母と娘のそれを反復するかのように思える歪な人間関係は、実のところ違う人間同士の関係なのだから、類似こそすれどこまでも異なるものでしかない。ならば、そこにあるズレを母と娘の関係に重ね戻すことで、固着した母と娘の関係を解きほぐすことも可能だったのではないか——。

と、余計なお世話を言いたくなるのは作品がよくできていた証拠だろう。作品の複雑な構造はそれに応じた複雑な感情を描き出すためにこそあり、ときに繰り返される短い場面をつなぐことで物語を立ち上げていく手つきも危なげない。BUoYの広い(そして使いづらい)空間に複数の場面を展開する空間構成は巧みで演出の手数も多い。物語が複雑すぎて観客がついていけないのではないかという危惧はあるものの(私も台本で確認してようやく把握できた部分が多々ある)、TeXi'sが若い劇団としてはすでに相当な力を持っていることは間違いない。さらなる展開を楽しみに待ちたい。

評:山﨑健太(y/n)

1983年生まれ。批評家、ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeでショートレビューを連載。他に「現代日本演劇のSF的諸相」(『S-Fマガジン』(早川書房)、2014年2月〜2017年2月)など。2019年からは演出家・俳優の橋本清とともにy/nとして舞台作品を発表。主な作品に『カミングアウトレッスン』(2020)、『セックス/ワーク/アート』(2021)、『あなたのように騙されない』(2021)。

ひとりで同時にいくつもの声を聞かされる経験について

評:植村朔也(東京はるかに)

 

 同時多発会話というものがある。平田オリザの青年団の演出に代表され、観客が聞き取りやすいように台詞を一つずつまっすぐ届けるようなたぐいの演劇の嘘に背を向けて、同じ場で同時に並行して行われうる会話の在りように忠実な発話を行う、そういうリアリズムの手法だというのがその基本的な理解のはずである。ところが、そうしたリアリズムからは手を切った作風にもかかわらず、なお同時多発会話の形式を残し続けるような、ある特異な傾向が今日の舞台には存在している。どういうことなのか。

 まともに聞き取り切ることのできない台詞の洪水は、そのどれかを選び取って聴取することを観客に迫る。そこには参加がある。それに、一度に複数の話がなされると、その会話はどれだけ整理されていようと情報量の多い、ノイジーなものとして経験され、知覚への負荷が大きくなる。これは逆に、情報量の操作によって観客の知覚への負荷を調整できるということでもある。こうして、舞台を観ることはいくらか主体的で身体的、聴覚的な経験になる。そういうことなのか。

 

 わたしは去年から小学生に国語を教えている。その教室はしばしば怒涛の同時多発会話の劇場となる。というか戦場である。子供たちは自分の話していることを何としてでも聞き入れさせたいのだ。だから全力で大声を出し合う。わたしは別に聖徳太子だから黒板の前に立っているわけではなく、それらの声をあまさず拾うことなどできるわけもないのだが、だからといってその声を聴くのを最初からあきらめてしまえば、大事な何かを聞き漏らすことになるかも知れない。「知覚への負荷が大きくなる」などと悠長なことを言っている場合ではないのだ。

 子供たちは話を聞いてもらえなければ途端に機嫌を悪くして、そっぽを向いて隣の生徒と話し出す。そうなればもう滅茶苦茶である。もちろん、教師の権限を使い、怖い感じに振舞って黙らせておく手ももちろんあるのだけれど、それは今のところしていない。

 というのは、手を挙げてひとりずつ話を聞いてもらうのが一番理にかなっているのだということを、子供たちは少しずつ自然に学んでいくらしいからだ。私が教えているのは少人数の教室だから、時間内に全員の話をひととおり聞くことは、実は出来る。しかし、手を挙げるルールに従った方が早いことなんて一目瞭然の気がするのだけれど、すぐにそうはならない。その少しずつの理解のプロセスに、なにか秘密があるのだ。

 この頃の子供は、大人というのは自分のすべてを手放しに受け入れてくれる存在だと思い込んでしまっているところがあって、そこにはちょっと圧倒的な信頼がある。もちろん、実際のところ子供が何を考えているのかなんてわたしには知るよしはないのだけれど、それでも、そういう期待はほとんど物理的な圧としてひしひしと実感されるものである。自分の話は聞き入れられて当然なのだという期待。

 しかし、それは当然ある種の不安と裏腹な関係にある。子供たちの声のかまびすしさはそれを証している。そしてその不安は、二つしか耳を持たない教師の無能によってやがて形をとることになる。親とは違い、優しげな顔をしておきながら自分につきっきりで話を聞いてはくれない、そうした無能な大人の存在を実際に納得して初めて、子供は手を挙げるふるまいの必要を認めるのだ。

 それまで彼らは必死に叫び続ける。そこには承認と傾聴をめぐる争いが実際に展開されている。だから教室は戦場なのである。そして、実際にあたふたしながら話を聞こうとし、失敗して、身体をめちゃくちゃに分断される、そういう未熟としか思えない無様さを引き受けるプロセスが、教育ということには織り込まれている。

 

 教育を始めてから、同時多発会話の演劇にわたしは別の身体的快感を覚えるようになった。たいていとても聞きやすいのである。よく整理されている。それに、聞き逃したら聞き逃したで特に問題がないところもいい。他の話に集中していて、もう一方の重要な話が聞き取れなかったがために、その後舞台がつまらなくなるとか、そういうことは普通起きない。

 その意味で、ここで観客はもはやまともな話の聞き手としては扱われていない。観客がその話を聞こうと聞くまいと、そのことは根本的に重要でないというわけなのだから。そこで与えられるのは観客の不在のイリュージョンである。第四の壁の向こうの客席は見えないことになっていたとしても、登場人物のふるまいや言葉は通常観客に向けて奉仕している。芝居の嘘臭さというものの原因は、たいていこの矛盾にある。

 同時多発会話はそこに「別にお客さんがこの話を聞こうと聞くまいとどうでもいいんですけどね」といった表情を持ち込むことで、この引き裂かれを調停しようとする。暗闇の客席に座る観客は、覗き見・盗み聞きの第三者としてそこに居合わせることになる。これは実際ほとんど事実であるわけだから、いくぶんましというか、リアリティのある嘘ではある。

 

 ところがTexi's(てぃっしゅ、と読む)の『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』の場合、話は別だった。というのも、登場人物同士の関係性の主要な紹介が、まず序盤の同時多発会話で行なわれていたからだ。

 情報量が多く筋を見失いやすい作品ゆえ、ここで人物紹介の発話を追っていたかどうかはその後の鑑賞を大きく左右した。わたしはといえば、当該シーンではもう一方の発話ばかりを追っていたので、その内容は上演後に物販で販売されていた戯曲から後追いで知ることになった。「その声を聴くのを最初からあきらめてしまえば、大事な何かを聞き漏らすことになるかも知れない」たぐいの同時多発会話だったわけで、それはその後も続いた。

 この場合、「あの話を聞き逃した」という混乱やとまどいは、観客の経験を構成する決定的な要素になる。ここで問題にしたいのは、もちろん鑑賞経験の分裂がどうとかいう抽象的な構造の話ではなくて、そこに直面したときのわたしの感情である。というのも、もうお気づきの通り、それは未成熟ないくつもの声に必死に追いすがるときの、あの身をちぎられるような困惑の感情だったのだから。

 『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』が上演された5月は新しい生徒を受け持つことになる年度の変わり目で、わたしはちょうど授業を終え、疲労感をため込んだその足で劇場へと向かった。だからだろうか、教えている子供たちの姿をその同時多発会話に見てしまったのは。

 しかし、『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』で観客が演じさせられるのは教師の役割ばかりではない。むしろ逆に、作品は観客を子供のように扱う仕掛けに富んでいた。思わず笑ってしまったのだが、作品はどうやら保育園を舞台にしているらしく、子供に言い聞かせるようなくだけた物言いになる小又旭の前説は、そのまま先生としての演技へとシームレスに移行していくのだった。観客は、ここで作中の園児たちとどこか似た立ち位置に立たされる。

 加えて、観客には事前にライトが配られ、照明の落とされるシーンでは舞台の好きなところを照らしてよいことになっていた。アトラクション的な楽しい趣向で、まるでバズ・ライトイヤーのアストロブラスターである。

 しかしそんなアストロブラスターも楽しいばかりではない。というのも、それは震災に伴う停電の表象でもあるからだ。ここで観客が演じることになるのは、子供であるよりも前に被災者の姿である。

 

 保育園の園児たちが「儀式」と呼ばれる謎の遊びを通じ、不和を抱えた家庭を演じることが、この舞台の基本的な枠組みになっている。しかし、演じられた家族の人格と演じ手であるはずの子供たちの人格は相互に嵌入し合う。しかも、そもそも保育園の先生と園児という役割自体が演じられたものに過ぎなかったことまでがやがて明らかになる。その上園児たちの名前は出演者の本名やあだなから取られているため、本人と役柄の無差別はアナーキーなまでに横行する。

 こうして、論理レベルの異なる様々な役柄が個々の身体に積層する。それらの役柄は戯曲の方ではある程度整理されているが、それぞれの性格が目立って演じ分けられはしないため、観客は脳内でしきりに解釈のエラーを起こすこととなる。異なる時点や場所、人物が、その区別はほとんどつかないままに観客に経験される。まさに儀式的というほかないこうしたリミナルな時間を通じて、やがて震災や家庭のトラウマティックな記憶がかたちをとりはじめるのだ。

 したがって、少なくとも戯曲を手にすることなしにシナリオの構造を把握し切るのは困難を極めるのだが、鑑賞はそれほどストレスフルではない。脈絡を欠いたシーンの配置やリフレインの構造、未成熟の主題など、マームとジプシーからの影響の強い本作だが、観客を置き去りにしないその編集的な構成は見事である。

 しかし、それと同時に、本作が観客をつなぎ止める上で重要なつとめを果たしていた、ある仕掛けに触れないわけにはいかない。それは、「アヤノ」という一つの特権的な名前だった。

 

 「アヤノ」とは、Texi'sの作・演出を務めるテヅカアヤノの下の名前である。そして、作中に登場する園児の名前でもあり、「儀式」で描かれる家庭の娘の名前でもある。家庭の他の登場人物の名前は「父」や「母」といった役割語、あるいはペットの「くっきー」や「テト」といったもので、出演者名からは由来していない。すなわち、ただ「アヤノ」だけが、家庭と保育園という二つの舞台、そして制作の現実をも貫通する特権性を備えた名前なのだ。

 この名前はばらばらないくつもの世界をまとめる蝶番のようなはたらきをする。人物や出来事がその対応関係も不明瞭なまま入り乱れる作品ではあるが、そこで「アヤノ」という単一かつ同一の主体を想定することが出来るために、実際には異なる時点や文脈、人物において生じているはずの出来事も、この主体の感情やトラウマを説明する断片的なファクターとして整理できるようになるのだ。

 もちろん、「単一かつ同一の」とは書いたものの、作中で描かれた「アヤノ」の記憶やエピソードをテヅカアヤノ自身のそれとまったく同一視しているのではない。しかし、三人の「アヤノ」を対応させて読むことを促す私小説的な構造がそこに用意されていること自体は疑いえない。観客は自然とテヅカアヤノ自身の経験や記憶に思いを馳せざるを得ないのだが、あるいは、そうして想像された第四の人格としての「アヤノ」(以下ではこれを<アヤノ>と表記する)こそがここで上演されていた当のものなのだと理解してもよいだろう。この<アヤノ>が他ならぬテヅカアヤノ本人によって舞台上で演じられたことも手伝って、断片的で難解な筋の運びにもかかわらず、観客はエモーショナルな興味を備給させられ続けることとなる。

 ところで、戯曲では、園児らの名前はひらがなで表記されるとき「子供」の状態を指し、カタカナで表記されるときは「今」の状態を指す、との指示がなされている。しかし、作中では時を経て大人になってからの園児の姿が描かれるとかいったことは起こらない。ひらがなとカタカナの区別は、たとえば成熟した人格と未成熟な人格と言った区別にも特に対応していない。むしろ、カタカナで表記されているときでさえ、人物たちの言動にはどこか幼さが目立つ。

 作中にひらがなのアヤノは登場しない。「まい」や「やなぴ」といった子供たちに混じり、「アヤノ」はあくまで「アヤノ」で園児を演ずるのだ。幼児退行もいいところだが、ここで浮かび上がってくるのは、戯曲の指示する「今」とは<アヤノ>の位相を指示するものではないかという解釈である。物語の焦点は、時間の歩みを止めたかのように幼さを引きずり続けてきてしまった<アヤノ>の現在にある。劇中の時空のねじれは、そのまま<アヤノ>が内面に抱え込み続けてきた時間のねじれに対応しているのだ。

 結局の所、現実的な出演者の水準であれ、アヤノにつきあう園児たちの水準であれ、『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』には、この<アヤノ>のトラウマティックな記憶を上演行為を通じて分け持ち、共有するという治癒的な性格が備わっていたわけである。

 

 治癒的と書いた訳は、これがいわゆるドラマセラピーのプロセスに類似しているからである。ルネ・エムナー『ドラマセラピーのプロセス・技法・上演―演じることから現実へ』(尾上明代訳)によれば、「ドラマセラピーは、精神的な成長と変化を達成するために、ドラマ/演劇のプロセスを意図的に、そして系統的に使う手法である。そこで使われるツールは演劇から生まれ、その目標は心理療法を起源としている」。

 ドラマセラピーの一つに、クライエントの抱える悩みを集団で演じ、かたちにするロールプレイがある。クライエントはこのロールプレイを通じて自分の悩みを客観視するとともに、その困難に対してとりうる姿勢や行動をシミュレート出来る。重要なのは、このロールプレイではしばしば役割交換が行なわれることだ。自分や、自分を困らせている人間のことを、何人かの人間で互いに演じ合う。そのことで、クライエントは自分の「役」から開放されることも出来るし、あるいは、他者の「役」の目線に立ちながら自分を見つめ直すことも出来る。そうしてクライエントたちは傷を分かち合い、癒やす。もしその過程を見つめる観客がいるとすれば、演技を通じてしがらみから解放される人間を見ることの快は、その人びとにも共有されるだろう。<アヤノ>のトラウマを出演者たちで共有し、かたちにしたものと見られる『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』には、そのような効用があったと考えられる。

 しかし、上演行為が治療的な性格を持つとき、そこで起きるのが良いことばかりとは限らない。たとえば、上演が心理主義的な性格を持つことからはさまざまな問題が派生する。しかし、ここで問題にしたいのは、たとえ役割をさまざまに交換しようとクライエントが決して解放されることのない、ある「役」のことだ。それはもちろん「クライエント」という名の役に他ならない。

 

 「クライエント」を演ずるとき、人は導かれる者、指導される者の位置に自らを進んで置き入れることになる。出演者の多くが保育園の園児を演じ、未成熟な者として振る舞うこの舞台は、まさにそうした性格を帯びていただろう。しかし、こうして「クライエント」を演じ続けると、人は自分を「正しい方向」に導いてくれる「良き案内役」をどこかで想定する思考に陥りやすい。治療とは、個人の中で歪み、蛇行してしまった時の流れを、正常な本流に回帰させることである。その結果、自分を苦しめ、未成熟の枠に押し込めてきた社会規範をかえって強化することにもつながりかねない。

 ここで、『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』が園児役と先生役を置き、両者の間に役割交換の関係を設定していたことが、決定的に重要である。つまり、この舞台では通常のドラマセラピーとは異なり、「クライエント」の役割さえ交換され、時に人はそこから解放されたのだ。とはいえ、作品は主に<アヤノ>個人の心的トラウマへ照準を定めていたがために、扱われる社会問題への視点をこの構造が深めるまでには至らなかったように思われたのが、残念ではあったが。

 しかし、いずれにせよ、『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』がここまで見てきたような上演性格を持ちながらも、過剰なセンチメンタリティや青臭さから一定の距離を置くことに成功していた一因は、「先生-園児」に代表される垂直的な関係を攪乱的に導入する仕掛けにあっただろう。

 『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』はもともと2021年8月の上演を予定されていた作品であり、今回の舞台はその延期公演だったのだが、この延期に際して、クレジットにはある重要な変更が加えられている。もともとは「みんな」が務めることになっていた演出を、テヅカアヤノひとりが引き受けているのだ。その経緯について、わたしは知らない。しかし、そこには、自分の抱えた傷を「みんな」に癒やしてもらおうという受け身一辺倒な態度とは線を引く、ひとりの演出家の正しい孤独があると見てよい。

 わたしはそうした孤独のまっとうさを思う。それというのも、子供たちがものの順序というものを覚え、ひとつの場所を複数のものが同時に占めることは出来ないのだと学ばされてしまうまでのあの時間のことを、わたしはすでに知っているからである。

評:植村朔也(東京はるかに)

1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。