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『夢のナカのもくもく』- 劇評 -

「強いられた選択:変わらぬ世界で変わらず怒り続けること」

評:山﨑健太

谷崎潤一郎『春琴抄』を原案に、観客が会場内を(一定のルールのもと)自由に観て回る回遊型のパフォーマンスとして上演されたTeXi's『夢のナカのもくもく』。第一回公演『水に満ちたサバクでトンネルをつくる』から第二回公演『Aventure』へと引き継がれた絶望と怒りは、ほとんどそのままのかたちで今作にも流れ込んでいる。驚くほどに変わっていないと言ってもいいだろう。それはもちろん脚本と演出を担当するテヅカアヤノの選択によるものなのだが、しかしテヅカにそうさせているのはこの驚くほどに変わらない社会である。上演がはじまってすぐに発せられる「変わらないことの方が難しい」という言葉は、ゆえに両義的に聞かれるべきだろう。変わることを嫌悪する人々によって保守される社会と、そのなかにあって変わらず怒り続けることの困難。変わらぬ日々に平穏を見出し、同じことの繰り返しに飽き飽きすることができるのは、言うまでもなく一つの特権なのだ。

『夢のナカのもくもく』は、「盲目の三味線師匠春琴に使える佐助の愛と献身を描いて谷崎文学の頂点をなす作品」たる『春琴抄』から、その物語ではなく春琴と佐助の関係を抽出し(それはほとんど設定と呼んで差し支えないレベルにまで還元されている)、それを現在の文脈に置き直してみせる。今作においては前二作と比べても物語性はさらに希薄になっており、いくつかの断片的な場面と繰り返される問答のようなやりとりを通して、春琴と佐助の関係に端を発する思索が立ち上がっていくことになるだろう。
見ると見ない。見えると見えない。見せると見せない。醜く崩れてしまった自分の姿を見て欲しくないという春琴の願いに応えるかたちで自ら目を突いた佐助の行為は、お師匠の推しへの読み換えを介してアイドルとファンとの共犯関係へと重ね合わせられる。見たいイメージと見せたいイメージが一致したところに成立する偶像。それが成立する関係は幸福なものだろう。しかし、ひと度そのバランスが崩れたとき、見たいイメージだけを見ようとする視線は現実を無視し、見られる側を抑圧するものとなる。
一方で、佐助の行為が春琴と同じように世界を見たいという願いゆえのものでもあったことも忘れてはならない。自分に見えるように誰かを理解するのではなく、その誰かに見える仕方で世界を理解したいと願うこと。一見、作品の主題とはほとんど関係ないように差し込まれる「僕のことを男、だと思って欲しくないんですよね」という俳優の宣言や障害者である春琴に投げかけられる言葉を思い出したい。これはもちろんアイドルに限った話ではないのだ。

これまでのTeXi's作品もそうであったように本作もまた複数のレイヤーから構成されている。上演台本で「劇場レイヤー」「春琴抄レイヤー」「学校ごっこ遊び」と名づけられたそれらの境界は、しかし観客からすれば必ずしも明確ではない。場面ごとにレイヤーが切り替わるわけでも、レイヤーごとに異なる演技体が用意されているわけでもないからだ。印象としては「学校ごっこ」が上演時間の大半を占め、そのなかに時おり「春琴抄」が持ち込まれ、それらが不分明なままゆるやかに「劇場レイヤー」=現実と接続している、というところだろうか。
「学校ごっこ遊び」のレイヤーに大ムカデ(数人が前後に並び足首を紐で結ばれた状態で競走する競技)の練習が組み込まれていることは示唆的だ。足並みを揃えることを要求される学校という場はそのまま現実へと接続され、怒りは大ムカデを強いる社会へと向けられている。そこで示されるジェンダーや人間関係、障害などをめぐる規範は抑圧としてしか機能せず、生きていくためのロールモデルとはなり得ない。だからこそ学校の場面は「学校ごっこ遊び」でしかないのだ。「先生どこにいんの?ずっとずっとずっといないじゃん」。そこにある怒りは、今ある社会を作り上げてきた先行世代に、「先生」であるべき人々にはっきりと向けられている。

開演前から流れている「ボレロ」を通奏低音とする本作では、6人の俳優がときに3組に分かれ、いくつかの同じ場面を入れ替わり立ち替わり演じることで上演が進んでいく。観客はギャラリー1,2,3の三つに分かれた空間を反時計回りに回遊しときにその場に止まりながら、何を見、何を見ないかを自ら選択していくのだが、だからといってこの作品では観客一人一人が全く異なる観劇体験をするというわけではない。演じる俳優こそ変われど、それこそ順列組み合わせのようにして同じ場面が何度も繰り返されるからだ。どのように移動してもおおよそ同じような場面を目撃することになるのだと気づいた観客の多くは、やがて主要な場面が上演されるギャラリー1でその歩みを止めるだろう。同じことの繰り返しなのであれば歩みを止めても変わりはあるまい。
だが、どのように回遊しても作品の大枠を見失わない「親切設計」は観客を思考停止に引きずりこむ罠でもある。同じ場面でも演じる俳優が変われば印象も変わり、同じ俳優が同じ場面を演じていたとして、初めて見るのと二回目に見るのとでは受け取り方は変わってくるだろう。横に長く、空間を三分割するかたちで使われているギャラリー1では、立つ位置によって見える風景も聞こえてくる言葉も違っているはずだ。移動してもしなくても変わらないという判断は、そこにあるはずの差異を等閑視することによってしか成り立たない。一人二人と歩みを止める人が増えるにつれて回遊し続けることへの負荷と留まることへの圧力は増していき、やがて観客の多くは歩みを進めることをやめてしまう(だがその判断は果たしてどの程度観客個人のものと言えるだろうか)。そうして大半の観客が同じ場所で歩みを止める頃、上演は冒頭の場面へと戻り、唐突に挟み込まれるアナウンスが終演を告げる。繰り返し同じ場面を演じ続ける俳優をあとに、その場を立ち去るよう促される観客たち。だがそれが繰り返しからの解放を意味しないことはもはや明らかだろう。劇場の外には今も変わらない世界が待っている。

夢のナカのもくもく
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